戦時中、満州にいた林宇三郎(二代社長)は毛沢東の八路軍に拘束されてしまう。その時中国人たちが「この人は我々の同志です」と命乞いをして窮地を救ったとか。敵であった日本人をそこまで庇うとは、宇三郎は信頼の厚い存在であったに違いない。戦時中、林組は開店休業のような状態だったが、終戦後酒田に帰ってきた宇三郎、四男・政太郎たちが中心となって家業を立て直しはじめた。
林建設工業100年の歴史において、また、酒田の建設業界の歩みにおいても酒田大火は忘れることのできない大きな出来事だ。その日は台風並みの低気圧による強風で、映画館から出火した火は瞬く間に酒田市街地を覆い尽くした。山形県建設業協会酒田支部は、林建設社内に酒田大火緊急対策本部を設置。延焼防止のため建物破壊に使用する土木重機の要請を受けて出動を手配した。翌朝、焼け跡に残ったおびただしい瓦礫の山。林建設工業はその撤去作業の他、解体作業、仮設住宅・店舗建築など本格的な復旧活動に取り掛かった。
商店街の再興には「共同建築」という、隣同士で壁を共有する方式を取り入れ、林建設工業はその建設を担うことになった。現在も中心商店街に残っている「セットバック方式」。PC工法を用いたこの方式は大火後の商店街復興の切り札となった。
2011年3月11日。林建設工業では地震の発生とともに緊急体制が敷かれていた。火力発電に工業用水を送っている送水管が破損し断水、市内は停電となった。県企業局の担当から被害の状況を聞くとすぐに、酒田工業用水の加圧ポンプ場で夜を徹して復旧作業にあたった。
被災した太平洋側の海岸では岸壁や防波堤が津波で壊され、道路も寸断されて海から物資を運ぶしか方法がないというとき、海底の瓦礫が障害となっていた。林建設工業は、海洋工事用の起重機船に乗って被災地の海に向かい、瓦礫の撤去作業にあたった。
災害時、水が出なかったり電気がつながらないとき復旧させるのは建設業。この大きな経験が若い社員たちに「我々が地域を守るんだ」という強い気持ちを改めて芽生えさせるきっかけとなった。